中国・合肥市への旅
     李鴻章の故郷を訪ねて

 平成26年9月20日から24日、可睡齋の佐瀬斎主はじめ一行14名で中国安徽省合肥市へ四泊五日の旅に出て参りました。合肥と言えは、あの活人剣碑ゆかりの人物・李鴻章の生誕地です。ただ今、この石碑の再建事業が始まっていますが、今回の旅は中国で李鴻章がどのように評価されているか、現地の声を直接聞いてみたいという思いがありました。
 初日、朝四時に可睡斎に集合した一行は、中部国際空港から一路空路で上海に向かいました。ここから合肥までは中国新幹線に乗車、約三時間余りの乗車で夕刻目的地に着きました。
 中国新幹線に乗って気が付いたのは、やはり中国大陸の大きさでした。行けども続く真っ直ぐな線路、車窓から見える夕日は暫くその位置を変えることはありませんでした。合肥市の人口は450万人、静岡県の人口より多い大都市です。
 ホテルへ到着して間もなく、順天堂大学の准教授で中国の華中科技大学教授の汪先生にお見えいただきました。汪先生は、中国からの日本の留学生のまとめ役をしておられる方で、今回も通訳ほか大変お世話になりました。
 翌日はまず大きな目的の一つである李鴻章享堂を訪ねました。ここには李鴻章が埋葬されている墓地があります。享堂の門をくぐるときれいに整備された円墳状の墓が見えました。
 文化革命当時、李鴻章は中国を外国に売った売国者と避難され、関係者が迫害を受けたと言われています。また、多くの施設が破壊され、その傷跡は今でもこの享堂のあちこちにも見ることができます。しかし、現在は立派に修復され、訪れる人も絶えないようです。
 墓所の前に立たれた佐瀬斎主、吉井僧侶は直ぐさま深く一礼し読経を始めました。読経が流れる中、一行も次々に参拝し激動の時代の中国の指導者、李鴻章に手を合わせました。
 享堂と共に今回の訪問で重要な施設に李鴻章故居があります。故居とは住居のことで、かつて李鴻章がここに住まいを構えていた場所です。今は李鴻章に関係する貴重な展示・資料館となっています。
 故居は合肥市市内の中心地にあり、道は車の進入が規制されて歩行者天国になっていました。繁華街だけあって、さすがに若い人が多く商店や露店が並んでいます。そんな混雑した中を暫く進むと故居がありました。
故居の入口は、中国伝統の円形の石が両脇に置かれた立派な門構えになっています。中に入ると建物は二階建てであり回廊式になっています。
故居では、故居の館長の呉氏、安徽省文化研究院長で歴史学博士の翁氏など四人の関係者が出迎えてくれました。会談の中で、「可睡斎には李鴻章に関する石碑が残っており再建の準備をしている。」というと大変驚いた様子でした。また中国側も、「李鴻章は今、再評価されようとしている。困難な時代に洋務運動を取り入れ中国を近代化しようとしたことは、ケ小平の改革開放運動の先駆けを行ったものだ。」と呼応されました。
初めは互いに緊張していましたが、会話が進むとすっかり打ち解けた様子となりました。最後には、こちらから持って行った李鴻章の漢詩の拓本などを贈り、また相手方からも李鴻章が手本としたとされる巻紙などいただき、互いに手を取って笑顔で握手をする関係となりました。
今回の旅で一番重きを置いた視察はこれで一段落しました。中国でも李鴻章は様々な評価を受けてきました。しかし当初に想像していたより李鴻章の評価は高く、特に郷里の合肥では多くの人達が愛着の念を抱いていることが分かりました。
ガイドが李鴻章のことを中国の人が一言で言うと「船は重かった。海は浅かった」ということだそうです。李鴻章が十分に力を発揮するには時代が早すぎた、ということを言おうとしたのだと思います。
今回の中国の旅では、この他に仏の導き、仏教の力というものを否が応でも感じる場面がありました。
明日は帰国という日、一行は上海市で最も大きい寺院という龍華寺に参拝しました。見慣れた日本の寺とはちょっと異なって、彩色を施し、見上げるような仏像が幾体も並んでいます。そこで額まで地に付け熱心にお祈りする上海市の善男善女、思わず熱いものを感じます。
佐瀬斎主は勿論、私たち一行も現地の仕来たりに倣いお参りしていると、そこに現れたのが龍華寺の明暘法主和尚です。やあやあと親しげに近づいて挨拶をするお二人、もうずっと昔から知り合いのようです。そしてやがて一番奥の部屋に通された一行は、ここで互いに揮毫を取り交わす場面に立ち会います。
最初は龍華寺和尚、たっぷり墨の付いた筆で「佛光普照」としたためます。これを受けて佐瀬斎主、ゆっくりとした筆遣いで「慈眼認衆生」と揮毫します。
更にこの後に一緒に行った書家の大谷晴嵐先生、その場に掲げてあった難しい古字体を使い、日中友好を意味する書を書かれます。そして最後は龍華寺和尚が「中日友好」と大きな字で墨書します。
この間、緊張した時間がどの位流れたのでしょうか、濃密でも爽やかな時があっという間に過ぎて行きました。
活人剣を建立した日置黙仙禅師は、「旌徳活人剣碑」に日清両国の戦死者の慰霊の意味を込めて「冤親平等」と謳い、また仏教徒の世界大会に出席した時には「世界平和めでたい。」と揮毫しています。
仏教が時を超え国境を越え、世界の平和に貢献する世界宗教であることを改めて感じた旅でもありました。  
可睡齋寺報「道光」第685号〜第687号に寄稿     2014.11.9 寺田守





ベトナム社会主義共和国視察

期 日  2012年4月15日〜19日 
目 的  袋井市とベトナムとの親善交流、文化交流、経済交流
視 察  「袋井市ベトナム国際親善訪問団」市民、産業界、行政など62名
 
 
 ベトナム社会主義共和国は、経済発展が著しい国である。人口8693万人、2020年の予測では1億人を突破するといわれている。日本からも多くの企業が進出し、現地での生産活動が行われている。
 このベトナムと袋井市は、歴史上ゆかりのある国となっている。かつて日露戦争に勝利した日本を頼って、ベトナム独立運動の志士ファン・ボイ・チャウが訪日し、東京で東遊(ドンズウ)運動を起こした。この運動は、当時フランスの植民地であったベトナムを独立させるため、国作りに有益な若者を育てようとして始められたものである。しかし、日本政府の方針変更で帰国を余儀なくされ、来日していたベトナムの若者は苦境に陥ることとなる。この時、手を差し伸べたのが、浅羽町梅山の出身の医師・浅羽佐喜太郎である。
 ファンは一旦帰国して後、礼を言うため日本を訪れたが、この時、佐喜太郎は既に亡くなっていた。ファンはこれを悲しみ、梅山の常林寺に地元の人との協力の下に、佐喜太郎を偲ぶ石碑を建てた。これが市の文化財として今も残る「浅羽佐喜太郎候祈念碑」である。
 この祈念碑を尋ね、前ベトナム大使のグエン・フー・ビン氏は2度にわたり袋井市を訪問している。また昨年は、在大阪ベトナム総領事のレ・クオク・ティン氏が当市を訪れ、ベトナムの経済事情の講演会を行っている。また、当市からも昨年は、「ファンボイチャウ没80年・浅羽佐喜太郎没100年記念」の行事が進められ、「東遊運動が生んだ日越友好の碑」をフエ市に贈るなど、交流事業が進められている。
 今回のベトナム訪問は、このような経緯を踏まえ計画されたもので、ファンの墓地があるフエ市、日本企業が多く進出している首都ハノイ市を中心に、各種の交流事業が行われた。


ベトナム中部の中心都市フエ市、古都としても名高い。
ファン・ボイ・チャウの墓地はここにある。


今回、フエ市の中心部に移転された
巨大なファン・ボイ・チャウの像

像の前で記念式典、訪問団、フエ市関係者などが参列

ファン・ボイ・チャウの墓に顕花する副市長、議長
 
昨年、寄贈され、墓地に建立されている
「東遊運動が生んだ日越友好の碑」
 
フエ市と袋井市の音楽交流会で
民俗音楽を披露する楽団
 
日本語を学ぶ高校生による交流会での
歓迎のダンス
 
日越交流懇親会で挨拶される
前ベトナム大使、グエン・フー・ビン氏
 
懇親会でのハノイ工科大学
ハノイ貿易大学の学生達の日本語スピーチ

 
国際人材育成機構・アイムジャパンの校舎。
全寮制となっており、4ヶ月の日本語の特訓を受けた後、
日本での3年間の就職が実現する。
 
真剣に日本語を学ぶアイムジャパンの学生達
 
ハノイ市のタンロン工業団地、日系企業88社が入居し、
5万5千人がここで働いている
 
浅羽にも工場がある昭和製作所のベトナム工場
 
各所で建設工事が行われているハノイ市
 
ハノイ市の中心部、建国の父とも言える
ホーチミンが眠る廟
 
郊外の田園風景