可睡斎護国塔の設計者  2020.10.31寺田守
伊東忠太と佐野利器が遺したもの

護国塔とは
 下山梨方面から東を見ると可睡斎護国塔の白い尖塔が僅かに見える。可睡斎は、私たち世代の幼少期には格好遊び場であり、「六の字穴」と並んで思い出深いところである。石畳の急な坂道を登っていくと道の真ん中に大きな松があり、登りきったところには売店もあった。
 この護国塔、建立されたのは明治四四年のことである。当時の可睡斎主であった日置黙仙禅師は、日露戦争で亡くなった八万余の戦死者を祀るため、慰霊塔の建設を全国に呼び掛けた。その願いが実現したのが護国塔である。建立当時は「東の神道靖国神社、西の仏教護国塔」と言われ参拝者が絶えなかった。
 護国塔は昭和五三年三月に静岡県の指定文化財に指定された。指定の理由について次のような記載がある。
 「護国塔は・・・インドその他の国の塔の古制をたくみに取り入れた塔。南面花崗岩積二重基壇、正面手摺付石階、鉄筋コンクリート造円型ドーム。・・・明治建築界の権威伊東忠太博士設計、佐野利器〔としかた〕工学士(当時)現場監督による明治末期の典型的な洋風建造物である。」
 二人はいずれも明治を代表する新進気鋭の建築家であった。この二人の足跡をたどることによって、護国塔に表現された意匠の意味と、先人達の取組を探ってみたい。
伊東忠太の足跡
 二人が生きた明治という時代、日本は西洋の荒波に揉まれながらも、自らの存立基盤の確立を急いでいた。建築界もまた同様であった。明治初期の建築家たちの共通の目標は、西洋建築の修得と習熟から始まった。
建築家たちの関心はまず、イギリス、フランス、ドイツなど伝統的なヨーロッパに集まった。やがて次の世代の関心は、若々しさと合理主義に彩られたアメリカに移るようになった。また一方では、日本建築のあるべき姿を求めてアジアに注目するようになった。その代表的な人物こそ伊東忠太である。
伊東忠太は慶応三年(一八六七年)現在の山形県米沢市の医師の家庭に生まれる。軍医となった父の転勤で少年時代を東京、佐倉で過ごす。やがて帝国大学工科大学(現在の東京大学)に進学し、「日本の近代建築の父」といわれる辰野金吾の指導を受ける。卒業後は同大学院に進み、同大講師を経て助教授となる。
この時期に我が国初の建築史の論文と言われる『法隆寺建築論』を発表する。日本で建築の歴史を学問として取り組んだのは、氏が初めてであった。明治二六年に発表されたこの論文では、法隆寺の柱の形状がギリシャの神殿の柱にたどり着くことを実証した。柱の中央部が僅かに膨らみ、上に向かって細くなっていくエンタシス構造である。氏の関心はアジアへと向かい、やがて中国・インド・トルコなど、当時まだ人が踏み入れない辺境の地にも足を運ぶことになる。
伊東忠太の世界旅行
日本建築の源流を訪ねてアジア各国を訪ねる旅は、「世界旅行」ともいわれ、明治三五年から三年に及ぶ。当時の大学では教授に昇格する際、海外留学があった。留学は通常欧米が一般的であったが、氏はあえて中央アジアを経由してヨーロッパ、アメリカを回る地球一周の旅に出る。
氏は画家を志望したといわれるほど絵を愛し、表現力が豊かであった。氏は旅の中で出会った遺跡や風物を「野帳」と言われる小さなノートなどに写し取っていった。
氏は帰国後、この「世界旅行」で得た考えを『建築進化論』という論文で発表する。そして実践的にも明治神宮や震災祈念堂、築地本願寺といった設計に関与し、次々と形にしていく。その作風は東洋と西洋が合流した独特な世界であり、今も多くの人を魅了してやまない。
可睡斎護国塔は、この氏が手掛けた一連の作品の帰国後初の建物であった。まさに建築家伊東忠太が、自らの考えを世に問うた最初の作品でもあったといえよう。
護国塔に表現されたもの
改めて護国塔を見てみよう。可睡斎主・日置黙仙が依頼したのは、古代仏教文明が栄えたガンダーラの仏塔に倣ったものであった。ストゥーパとも言われるが、日本では墓などに立てる卒塔婆に繋がる。氏は設計にあたってインドの仏教遺跡であるサーンチー遺跡から着想を得たと述べている。
入口階段の前には一対の獅子が座している。向かって右側は口を開いた阿形、左側は口を閉じた吽形となっており、中国洛陽付近で発掘された北魏時代の遺物から着想して作ったといわれる。
正面には、エンタシス状の柱が立っており、その柱上には三方向に向いた動物の像が取り付けられている。これは馬で古来インドでは象,獅子、牛、馬、鳩の五種類の動物が聖なるものとされ、取り入れられている。入口のアーチは、インドの石窟寺院の形状、上部はチベットの仏塔を参考にしたという。(注1)
このようにしてみると護国塔は、「世界旅行」からヒントを得た形状が随所にちりばめられていることが分かる。
佐野利器の仕事
護国塔が現在見る形になるまでには、いくつかの変遷があったことが知られている。最初の設計は、現在の一・五倍の高さがあり全て花崗岩の石組みづくりであった。それが全体鉄筋コンクリート造りなっており、下段外周のみが花崗岩の積壁になっている。この設計になったのは、予算、立地の制約のほかに、強度の面で課題あったともいわれている。そこで協力を求められたのが構造設計の第一人者であった佐野利器であった。
鉄筋コンクリートは、当時の最先端技術であった。同工法を使った日本最古の事務所建築は、明治四四年建設の三井物産横浜ビルといわれる。護国塔の完成はほぼ同時期であり、しかもドーム構造を採用しているのは極めて珍しい。
佐野は明治一三年(一八八〇年)現在の山形県置賜郡白鷹町生まれ、佐野家の養子となる。米沢市内の中学、仙台市内の高校に進学して後、東京帝国大学建築学科に入学した。入学当時は辰野金吾も教鞭をとっていた。
氏の関心は、芸術としての建築より、もっぱら工学としての建築、特に耐震工学にあった。きっかけになったのは、明治三九年のサンフランシスコ大地震の被害調査でアメリカに渡ったことである。被害を目の当たりにした氏は、大正一五年に「家屋耐震構造論」を発表、この論文は日本の建築構造学の基礎となったともいわれている。
また耐震構造に優れた工法として鉄筋コンクリート造りを推奨した。
二人の出会いと遺業
このように見ていくと、この二人の建築に対する関心は、対極にあるようにも思われる。
明治四三年に建築学会が「我国将来の建築様式を如何にすべきや」をテーマに初めての討論会を開いている。
そこで伊東忠太は「日本古来の様式を基礎に進化さるべき」と述べたとある。
一方で佐野利器は「建築美の本義は重量と支持との明確な力学的表現に過ぎない」と述べたとある。(注2)
この二人が護国塔建設という仕事で交わり、その後も明治神宮や震災祈念堂といったいくつかの重要な建築の設計にも共同で当たっていくのである。
二人は同じ現在の東京大学で建築を学んでいるが、年の差は一三才と離れている。その佐野が伊東のことを「先輩」と呼んでいたそうである。(注3)
思うに二人は同じ山形県南部の置賜地方の出身、郷土を想う気持ちが二人を結び付けていたとも思われる。
この二人の仕事は今の私達生活にも大きな影響を与えている。
まず伊東忠太であるが、それまで建築という言葉はなく「造家」という言葉を使っていた。しかし、西洋のアーキテクチュールを造家と訳すのは即物的すぎる。芸術性を込めた建築と言う言葉こそふさわしい、として学会を説得して回り、明治三〇年には造家学会いう名称を建築学会に改称させている。今ではこの言葉は広く社会に馴染んだ言葉である。
一方の佐野利器である。氏は徹底した建築科学主義者であったことは述べたが、構造計算の必要上からメートル法の普及に尽力している。当時の日本では尺貫法が広く使われており、採用には強い反発もあった。永年馴染んだ単位を変えるのは容易なことではなかったであろう。
建築と言う新語、メートル法の普及、これだけとっても二人が社会に遺したものは大きい。
護国塔の評価
豊沢にある静岡理工科大学では、理工学部建築学科の卒業生が今年初めて誕生する。県内に建築学科があるのは、同大学だけである。同学科の特長を次のように紹介している。
「生活する人々の文化と融合する建築学を研究し、静岡から世界に発信できる建築物のデザインと建築計画に必要な知識と技術を探求していきます。」
建築に求めているものは、時代によって変わる。明治の時代には欧米の模倣から日本的なるものの探求が課題であったが、今日では自然や環境、健康が時代のトレンドになっているかもしれない。しかし建築は文化であり、人にとって心地よい空間とは何か、という問いが変わることはない。
また同じく建築学科の紹介文には、次の記述がある。
「防災対策の貢献できる建築構造・材料、建築生産分野を、地域型防災(耐震、免振、制震、対津波対策建物、防災、減殺)を中心に強化し、日本をリードする安全安心な建築を探求していきます。」
建物の安全性は、日本が世界に先駆けて取り組んだ課題であった。そして今日なおますます重要さを増していることに変わりはない。
可睡斎にある護国塔、そこには日本の近代建築の黎明期「建築が熱く語られた時代」、伊東忠太と佐野利器という偉大な先人達の足跡が遺っている。社会に羽ばたく卒業生たちの今後の活躍を祈ると共に、建築物としての護国塔に光が当たることを期待したい。
参考文献 注1「伊東忠太を知っていますか」鈴木博之編 注2「近代建築の系譜」大川三雄・川向正人・初田亨・吉田鋼市著 注3「佐野利器(さのとしかた)簡介」遠藤英



 

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エンタシスと馬

狛犬

石碑刻名