可睡斎・護国塔 建立の謂れ 2012.10,14 可睡斎の奥、玉石が埋め込まれた急な坂道を登ったところに、白亜の威容を放つ建築物が立っている。この建築物は護国塔といわれ、高さは18メートル、四角に積まれた御影石の上に輪塔を伴った円形の構造物が、辺りの気配を払って立っている。 この護国塔、今静かに佇んでいるが、その建立の履歴を知れば思わず襟を正すような気持ちにさせられる。 護国塔が建てられたのは、明治44年(1911年)、当時可睡斎の第48世斎主であった日置黙仙禅師が、8万人余と言われる日露戦争の犠牲者を祀るために建立したものである。際立った意匠はガンダーラ様式といわれ、仏教伝来の地であるインドの墓、ストゥーバ(卒塔婆)から来たものといわれる。建築様式は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート製である。 この建築を設計したのは、日本の建築界に特別な足跡を残した東京帝国大学教授の伊東忠太である。構造設計には、同大学の後輩の佐野利器があたっている。いずれも当時の建築界を代表する第一人者である。建設工事費は、当時のお金で3万8千円余、現在の貨幣価値にして4億円相当になると思われる。 さて、日置禅師は、何故にこのような護国塔を建立しようとしたのであろうか。 言うまでもなく日露戦争は、明治維新で日本が世界の舞台に登場して以降、初めて経験する近代戦争であった。日本は、かろうじてロシアに勝利し、世界列強と肩を並べるようになったものの、戦争では多くの人が犠牲となった。 護国塔の傍には、高さ5.4mの大きな石碑が建てられている。ここには、建立の経緯が貴族院議員男爵の田健治郎の撰文で刻み込まれている。 「凱旋軍人ノ遍ク国民ノ歓迎ヲ受ケ、厚ク褒賞ノ栄典二浴スルヲ観ル。是ノ役ヲ顧視スルニ、戦没者ハ数萬ナリ。深ク其レヲ悼メバ、恩光ヲ被ル目ニハ盛事ヲ覩ルニ親シム能ハズ。」(撰文より抜粋、ルビ付け) 日置禅師は、歴代可睡斎主の中にあっても、たぐい希な活動をされた斎主の1人である。生誕は、弘化4年(1847年)、鳥取県北条町生まれる。仏門に入り僧侶となり、廃仏毀釈で荒廃した寺院を再建に奔走する。また、仏教の再興を願って宗派を超えた仏舎利塔・日泰寺の建立、またサンフランシスコ万国仏教会議に参加するなど、仏教界の復興に尽力し、曹洞宗の本山である永平寺の第66世貫主ともなっている。 禅師は、日露戦争終結後、半年も経たない明治39年、護国塔創立委員会を結成し、建設に向けた活動を始めている。 発起人総代には、日置禅師はじめ、侯爵・久我通久、陸軍中将男爵・赤松則良、陸軍軍医総監男爵・佐藤進、貴族院議員男爵の田健治郎など当時の権威ある人々11名が名前を連ねている。そして賛同者には伊藤博文、大山巌、東郷平八郎、大隈重信、板垣退助、寺内正毅など、まさに明治国家の重鎮が連綿と名を連ねている。宮内省からも、300円といわれる御下賜金が下される。建立の経緯を記した石碑の裏面には、これらの賛同者と共に、建設に協力した政官財の有力者二百数十名の名前が刻み込まれている。 こうして護国塔の建設は、「東の神道・靖国、西の仏教・護国塔」といわれるように、この事業が国家的な事業となって進められて行く。 禅師は、こうして建立の準備をする一方、明治40年に2人の僧侶を伴って大陸に渡り、戦地を訪ねる満韓巡錫といわれる旅にでる。出発は1月、厳寒の満州である。ここに3ヶ月に渡る旅を行い、戦場となった各地を回って慰霊の祀りを行う一方、遺品や遺灰を採取し、護国塔に安置すべく日本に持ち帰る。そして、その半年後の9月、起工式が行われ、3年にわたる建設工事が始まるのである。 この満韓巡錫の旅には、興味深い逸話が伝わっている。禅師が上京した際、たまたま乗車した列車に大阪の砂糖問屋の大商人、香野蔵治が乗っていた。この氏が、満州を旅する費用の全額を提供する、と申し出たのである。禅師の強い思いに引き寄せられた、という他はない。 明治44年2月、完成した護国塔の前で除幕開塔式が行われる。翌日の民友新聞(現静岡新聞)には当日の様子が記載されている。 「近郷近在は更なり英雄の名を慕いて東西遠隔の地より集まり来れるもの数知れず。満山人を以って埋もるるの盛況を呈したり。」 日置禅師の超人的な働きによって発願された護国塔は、ここに完成の時を迎え、多くの人々が犠牲者の追悼に参列するのである。 護国塔の内部には、帝室技芸員武内久一による木製の聖徳太子像などが祭られ安置されている。また、護国塔建設に合わせ、明治天皇崩御後、間もなく作成された明治天皇像が可睡斎に寄贈されている。この像は、元土佐の藩士で明治天皇の傍に仕えた田中光顕が、自分の晩年の住まいの青山荘(静岡・蒲原)にあったものを寄進したものである。明治天皇の生き写しと言われるこの像が、戦争の犠牲者の慰みになればと思い、贈ったものであろう。 なお、護国塔が可睡斎の地に建てられることになった経緯について、先の民友新聞に次のような記述が載せられている。 当初、建設候補地として、東京、京都、名古屋等の有力視されたようである。しかし、「東京には既に招魂社のあるなれば、更に護国塔を建設するの要を認めず。又た京都は神社の輻輳地にして既に古社寺の保存にすら十分手の届かざる有様なり。而して名古屋は第三師団の所在地にして、他の師団との権衡上適当なりとすべからず。」と記載されている。結局、東海道の中央に位置して交通の便も良く、もともと可睡斎主の日置禅師の発願によるものであることから、この可睡の地になった。 当時は、袋井駅からも護国塔を見ることが出来たという。袋井駅からは森町まで秋葉馬車鉄道が運行しており、同年12月には可睡斎まで支線も延長された。 あれから百年、当時と周りの風景は変わったが、可睡斎では今でも毎年、護国塔建立の意味を問い、戦争犠牲者に対する法要を行っている。そして、その威容は当時と変わることなく、静かに時の流れを見守っている。 ■昭和53年3月 静岡県指定文化財に指定 ■ 場所 静岡県袋井市久能 可睡斎境内 ■護国塔建設の経緯 1891年(明治25年)日置黙仙・可睡斎第48世斎主に 1904年(明治37年)日露戦争勃発 1905年(明治38年)戦争終結、ポーツマス条約締結 1906年(明治39年)日置黙仙、護国塔建設を発願 貴族院議員男爵の田健治郎、創立委員に 1907年(明治40年)日置黙仙、満韓巡錫の旅に出る 護国塔地鎮祭 起工式 1911年(明治44年)護国塔完成、除幕式
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