可睡斎・護国塔と伊東忠太    2012.9.28

 可睡斎の境内の奥に護国塔という白亜の建物が建っている。この建物は、今から約100年前の明治44年(1911年)、東京帝国大学教授の伊東忠太の設計によって建設されたものである。ガンダーラ様式を取り入れたといわれるこの建物は、日本の見慣れた仏教建築とは少し様相を異にしている。
 伊東忠太は、日本の建築界において特別な足跡を残した人として知られている。氏がどのような経緯でこの護国塔の建設に関わることになったのか。実はこの建築は、氏が明治の第一級の設計家として、独自の歩みを始めた最初の作品であり、氏の才能と個性が結実した作品でもあった。
氏は慶応3年、山形県米沢市に生まれている。東京帝国大学に入学し、世界の建造物を研究する。当時はまだ日本には「造家」という言葉あっても、「建築」という概念は無かった。西洋のアークィテクチャーに相当する言葉を「建築」と訳し、日本の近代建築学の基を作った人といわれている。
氏の研究で有名なものに、「法隆寺論」がある。この研究は、法隆寺の柱がギリシャのパルテノン神殿の柱の形状、「エンタシス」から来ていることを学問的に検証したものである。先端が細く、下方に向かって太くなっていく円柱の形状、この手法は柱を安定的に堂々と見せる手法であり、氏が早くから世界的視野で建築の起源に関心を持っていたことを示している。
伊東忠太は、東京帝国大学で建築を学んだように、明治の建築界の若きエリートでもあった。その才能は早くから注目され、平安神宮、台湾神社、伊勢神宮司庁など重要建築物の設計に、早くから共同設計者として参画している。
こういった華々しい経歴と共に知られているのが、氏の「妖怪趣味」といわれる独特の表現である。氏の作品には、妖怪としか言いようのない不思議な動物や文様が数多く見られる。この表現は、氏が幼少の頃に過した米沢の風景が影響を与えたと言われている。彼の地に残る伝説や民話、これが氏の持っていた天性の感性に磨きを掛け、近代の合理主義では収まらない独自の建築様式となったのかもしれない。
氏は溢れる才能を抱えて、明治35年に海外留学の旅にでる。当時、大学の教授になるためには海外留学が必須であった。しかし、少し変わっていたのは、留学といえば当時は欧米諸国への留学が一般的であったのに対し、アジア諸国を出発点にヨーロッパ、アメリカと3年にわたる旅をしたことである。「忠太の世界旅行」といわれるこの旅は、中国、タイ、インド、パキスタンなどアジア諸国を経てトルコ、ギリシャに入り、ヨーロッパ諸国、アメリカへと渡って地球を一周している。
当時は、交通機関などは殆ど無い時代である。海路は船、陸路は馬や篭に乗って旅をしている。氏はこの旅で「野帳」といわれる手帳サイズのスケッチブックに、当地の伝統的な建築物や意匠などを克明に記録し、写し取ってきている。この旅が、建築設計家・伊東忠太を大きく成長させ、磨きを掛けたことは間違いない。この旅で、中国では、世界遺産となっている莫高窟の石窟寺院などを発見し、西本願寺の大谷探検隊ともすれ違っている。このことも、この後の氏の建築家としての人生に、大きな影響を与えることとなる。
世界旅行から帰った翌年・明治39年、氏を待っていたのは、この護国塔設計の仕事であった。構造設計を任せられたのは、同じく東京帝国大学の後輩にあたる佐野利器、当時の新進気鋭の人物が共同で作品にあたるのである。氏は、世界旅行で得た成果をこの護国塔建設に思う存分注ぎ込んだと思われる。
護国塔には、氏が世界旅行で温めてきた構想が随所に見られる。まず護国塔の全体を通しての印象は、インド仏教遺跡であるサンチ−ン遺跡の墓から着想を得たものと言われている。インドの墓はストゥーパと言われ、卒塔婆の語源ともなっている。
細部を見てみると、まず塔に上がる階段、この登り口には一対の狛犬が配置されている。狛犬は建物を守る守護神とも言われるが、ここには氏らしい彫像が、阿吽の形で配置されている。アーチ型の入り口は、インド風の様式といわれる。両脇の立つ柱はエンタシスを取り入れており、その柱上には、馬とも牛とも思われる彫像が見下ろしている。塔の先端を見てみると、そこにはチベット風とも言われる法輪を伴った塔が、天に向かって伸びている。この他、建物のアクセントともなっている四角い格子状の文様、手摺に付けられた蓮の花のような球形の文様など、世界旅行からヒントを得たであろう造形が随所に見られる。
この護国塔の建設には、現行の建築とは別に、実現できなかった「幻の護国塔」のモデルがあったことが知られている。最初の設計したものは、今ある護国塔の倍の大きさで、全長36mの高さがあったと記録されている。もしこの初期設計の通りに立てられたとすれば、更に威容を誇るものになっていたかもしれない。
なお、護国塔がこのガンダーラ様式に落ち着くには、幾つかのエピソードがあったと記録されている。
当時発行された民友新聞(現静岡新聞)によれば、「日本古来の三重もしくは五重塔とすべき意見と、印度ノ陀羅式にすべきとの意見とに分かれ、いずれも建設委員で仏教への造詣の深い方であったため決着が付かなかった。」という。険悪な空気が流れそうになった時、間に入ったのが前の可睡斎主の西有穆山禅師で、「待てしばし、可睡斎は拙僧の嘗ての住持たりし寺なるが、此処に三重の塔を建設したらんには、始終(四重)は厄介で、後住(五重)が迷惑する事あらん。かくては、可睡斎の将来にも気の毒に思いに耐えざれば、塔はノ陀羅とすべし。さあ、極りたり極りたり」と詰め寄り、「満座放笑で事なきを得た」と書かれている。
護国塔は、建築家・伊東忠太のこれからの仕事の出発点ともなった。この後、氏は、精力的に数々の重要な建築物を設計していく。
現存する主な作品をたどってみても、京都伝道院、東京大学正門、日泰寺仏舎利塔、明治神宮神門、一橋大学兼松講堂、大倉集古館、京都祇園閣、震災祈念堂、靖国神社遊就館、築地本願寺、湯島聖堂などがある。
いずれも当時を代表する第一級の建造物であり、日本建築の新しい境地を開こうとした氏の思いが込められた作品でもある。そして今なお、その高い芸術性と、個性がきらめく建築表現は、多くの人を魅了して止まない。

<伊東忠太プロフィール>
1867年(慶応 3年)山形県米沢市生まれ
1889年(明治22年)東京帝国大学入学
1899年(明治32年)東京帝国大学助教授
1902年(明治35年)世界旅行に出発
1905年(明治38年)帰国 東京帝国大学教授
1911年(明治44年)可睡斎護国塔建設
1912年(明治45年)京都伝道院、東京大学生門建設
1918年(大正 7年)日泰寺仏舎利奉安塔建設
1927年(昭和 2年)一橋大学兼松講堂、大倉集古館
           京都祇園閣建設
1930年(昭和 5年)震災祈念堂、靖国神社遊就館建設
1934年(昭和 9年)築地本願寺建設
1938年(昭和13年)帝国芸術院会員
1943年(昭和18年)文化勲章受賞
1954年(昭和29年)逝去(86歳)