浅羽芝八幡神社の忠魂碑
「従軍紀念碑」に記された郷土の歴史


 ■はじめに
 浅羽芝の八幡神社境内には、日清・日露戦争から太平洋戦争までの三基の忠魂碑が建てられている。この忠魂碑が解体撤去される話があり、存続のための運動が起こっていることは、前回の「磐南文化」(四八号)に掲載された「『忠魂碑を歴史的遺産として残す会』設立の必要性について」(兼子春治氏執筆)に記載されている。幸いこの運動は地域の人達に知られることとなり、いま保存整備に向けた検討が始まっている。
 ■郷土と日清戦争
この三基の忠魂碑のうち一番古いのが明治三二年一一月に建てられた「従軍紀念碑」である。この石碑は日清戦争の紀念碑として旧上浅羽村が建てたもので、戦争が終結してから四年後に建立されている。
 明治二七年の日清戦争は、明治日本が最初に経験した対外戦争であった。この戦争に日本は勝利したが、容易な戦いではなかったことは今では知られることになっている。
 この戦争で亡くなった日本の兵士は一万三三〇九人、このうち一万〇八九四人が脚気、赤痢、マラリアなどで戦病死したといわれる。当時の衛生状態、医療では解明できなかった病により、出征した兵士の実に八割以上が病死しているのである。日本の国民皆兵制度が出来たのは明治六年、初めての外国でのこの戦争に国民が動員されたことになる。
 旧袋井市では一四二人、旧浅羽町で三九人、計一八一人が動員されたとの記録がある。このうち戦死戦病死者は旧袋井市で一一人、旧浅羽町で四人、計一五人が命を落としている。
 「従軍紀念碑」の碑文を読むと、出征した兵士のうち原丑蔵が平壌で亡くなり、加藤豊平が台湾で亡くなったと刻字されている。
 日清戦争は、朝鮮半島の帰属をめぐり日本と清国との争いであった。当時宗主国であった清国は李氏朝鮮とは朝貢関係にあり柵封体制をとっていた。一方の日本は、朝鮮を独立国家として承認し、近代的国家の関係を結ぼうとしていた。そこに朝鮮国内では東学党による農民反乱が起き、その収集をめぐって日清の緊張は一挙に高まった。
 この戦争は日本が優勢に推移し、やがて日本は清国全権大使の李鴻章を迎えて下関講和条約を結び戦争は終結する。しかしその後も日本の台湾出兵があり、講和直後にはフランス、ドイツ、ロシアによる三国干渉があり、国内世論は一挙に沸騰する。
 日清戦争は世界史的に見れば東アジア全体の動乱、衰退する清国とこれに乗じた西洋列強との熾烈な戦いでもあった。この戦いによって、国民は初めて国民意識が芽生える一方、「国」という重い課題を背負うことになる。この石碑からは、当時の郷土の人達おかれた状況が浮かんでくる。           
  ■旧幕臣による撰文
この「従軍紀念碑」には、この碑の撰文にあたった太田有終という人物の名前が彫られている。
 太田有終は漢学者で元幕臣、徳川家の移封に伴って来静、明治三年には横須賀藩勤番組として浅羽平芝の茶園の開拓にあたった。平芝は碑のある芝八幡神社とは至近距離にある。今も土塁が残る平芝陣屋跡には、取締役の荒井三喜三郎の指揮のもと二五戸・武士家族一〇五人が住まいを移し開墾にあたった。しかし、この事業は過酷な労働と廃藩置県により後ろ盾を失い、一年余りで多くの武士は平芝を去っている。
太田有終はその後、中泉学校や川井学校、掛川西高校の前身である冀北学舎で漢学者として教鞭をとっている。輝北学舎が開校したのは明治一〇年、それ以前の静岡藩には府中学問所、沼津兵学校があり、旧幕府を支えた頭脳が集積していた。太田有終もその一人として招聘されたのであろう。
ちなみに掛川には沼津兵学校の支寮が置かれたことがあり、江戸から移住してきた家臣約一五〇〇人の子弟の教育にあたった。
太田有終が平芝の開墾に従事したのは四四歳の時、石碑の撰文を依頼された時は、既に年齢も古希を越えている。しかし一番苦しかった時を過ごした当地を思い、特別な感慨を以て撰文にあたったのではないかと思われる。
なお、この平芝の茶園開拓の取締役であった荒井三喜三郎は、明治一三年には竜洋駒場で行われていた開墾に参加し、掛塚沖で遭難する船を救うため燈明台を建てた。そして明治三〇年建立の現在の灯台へと引き継がれている。
江戸から来た旧幕臣達、押し寄せる明治の荒浪、この石碑にはこの時代にここで生きた人々の思いが詰まっている。
(参考 「歴史遺産・平和への道標」「序章『冀北』の心」 浅羽町史 袋井市史)
(拓本:増井春男)


 「従軍記念之碑」(記述内容の概要意訳)

 清は約束を破り悪行を重ねるのでついに我が国は、その罪を問うて宣戦した。この上浅羽村からは若者十四人が県属第三師団として荒波をわたり悪路を超え清国と韓国の境界に入り、多くの戦いをした。戦って勝てない程の強い相手ではなく、攻め落とせない程の城でもなかった。将師といえども人が戦って結果を出せるもの、翻って出征の若者は勇敢で死を恐れることはなかった。しかし敵の出現は察知できぬこともあり、境界を守る守備隊四人、不意の戦闘で哀しむべきことに原丑蔵は平城にて戦死した。その後、加藤豊平は台湾を守っていた時に陣を失い戦死した。彼らは勇敢に敵に臨み死をかけて戦ったのだ。
 私は、屈原の九歌を詠むと感じるところがある。天が恨むところ、霊が怒るところでは勝敗は自ずと数によって決まる。多くの勇者は凱旋した。死地に赴き生き残った者は戦死者の勇を知る。不幸にして戦死した人は靖国神社に入り尊い犠牲として祀られた。郷土の人は戦死者の勇武を称え、その姓を石に彫りその名が永遠に残ることを望んだ。
 石碑の銘文は私に依頼された。若者が真っ先にそのことを望んだのである。私は断ることはしない。飾らざる銘文は以下のとおり。
 『勇敢な若者は国の守りである。彼らは鋒をもって陣を崩す。死をもって生をもって国を守った。生還した人々は我らの誇りある親たちなのだ。亡くなった人は報国の人だ。彼らの名を残すべく列記し石に刻む』

明治三二年十一月建立
陸軍中将従四位勲二等功三級 男爵   大迫 尚敏篆額 
             大田有終撰
             安西桂崖書  村石旭陵刻