可睡斎・護国塔建設と勧募活動 寺田守

  可睡斎にある護国塔の建設にあたり、当時の勧募活動の一端を垣間見る手紙が寄せられた。その内容を見てみると、建設は必ずしも順調に推移したばかりでなく、多くの人々の苦労の上に成就したことが伺えるものであった。
 護国塔は明治四四年九月、日露戦争で亡くなった八万八千人余の戦死者の慰霊のために建てられた高さ18mの塔である。発願者は第四八世斎主であった日置黙然禅師、建築デザインは明治の出色の建築家・伊藤忠太博士であった。
建設には九万九千九百九十五円という当時としても破格の予算が計上された。しかし最終的には十七万円余になったと記されているように大変な事業であった。現在の価格と比較することは単純にはできないが、仮に一円を一万円とすれば一七億円程の費用が掛かったことになる。
この建設資金の勧募にあたっては、日置黙然斎主を筆頭に久我通久、大隈重信、板垣退助、児玉源太郎、東郷平八郎、田健治郎といった明治の政官界の大物が名を連ねている。竣工までの経緯をたどってみると次のようである。
明治三九年五月一四日 田健治郎氏護国塔創立委員を応諾
同 五月一七日 浅草万隆寺に護国塔建設事務所を開設
同 一一月一二日 東京にて報道関係者を招き趣旨説明
 明治四〇年一月八日〜三月二七日 日置黙然斎主、満州渡航 帰国後、各地で追弔法要
 同 九月二八日 地鎮祭(起工式)
 明治四一年一二月一五日 設計図確定
明治四二年八月 第一期工事着手(塔基壇部)
 同 九月二二日 神谷氏が欠損金一万円余を義損的補填し、工事継続
 同 一二月一五日 上下成壇工事竣工
 同 一二月一七日 塔部の鉄筋コンクリート工法を決定
 明治四三年二月二〇日 第二期工事塔体築造着手
 同 四三年三月 内務省に募金期間の延長願いを提出
 明治四四年二月 宮内省より御下賜金あり 同 竣工落成式
 同 四月二日 除幕開塔式
 同 九月一六日 委員会で最終決算、本会解散等を議決し全事業終了
 今回見つかった手紙等は、明治四二年頃の資金的に行き詰まった時期と重なる。調達の本部となっていた東京事務所と、資金を管理していた可睡斎担当者とのやり取りである。当時東京事務所には水谷豊全氏が詰め、可睡斎には横井恵超、増田小三郎の両氏が資金を管理していたと思われる。
手紙からは「東北地方に出張したいので徴収した資金から旅費を借用したい」旨などの当時の切実な状況などが書かれている。
 また使っていた銀行の貯金通帳の一部もあった。袋井銀行とあり、墨で記載された年代物である。通帳は当座貯金通帳、「護国塔建設協賛会会計主任 増田小三郎殿 高階瓏仙殿」とある。
 護国塔の傍には大きな石碑があり建立の目的などが刻まれているが、裏面には寄付者の氏名(団体含む)が二六五人にわたって記されている。
 氏名を追っていくと、地元とゆかりのある著名人の名前も見ることができる。咸臨丸の赤松則良、活人剣の佐藤進、製糖王の鈴木藤三郎、釜石製鉄の田中長兵衛・横山久太郎、大日本報徳社の岡田良一郎、衆議院議員の杉山東太郎、等々。
 護国塔は建立より一一〇年の歳月を迎えたが、上空から見てもその特徴的な形から航空機の目印になっているとのことである。また、昭和初期に撮影されたフィルムなども発見されている。時を超え、朝夕はいまも修行僧のつく護国塔の鐘が鳴り響いている。
 参考:可睡斎護国塔物語