袋井駅に降りたファン・ボイ・チャウ
 『自判』から読む浅羽佐喜太郎公紀念碑   寺田守


浅羽佐喜太郎公紀念碑が建立されてから100年になるのを記念し、昨年は9月22日の式典などいくつかの記念行事が行われました。11月27日には天皇皇后両陛下の行幸啓という思いも寄らない出来事もありました。建立100年を記念する特別展も開催されましたが、その中で、袋井市教育委員会がファン・ボイ・チャウの自伝『自判』(『年表』ともいう)を漢文から直接翻訳されました。
 ファン・ボイ・チャウは、ベトナム独立運動の先駆者として多くの檄文や書物を残しています。しかし浅羽佐喜太郎との出会いや紀念碑建造について触れているものは、この『自判』しかないようです。この『自判』をもとに袋井での足取りを追ってみたいと思います。
 ■ファン・ボイ・チャウの足取り
 浅羽佐喜太郎公紀念碑が建立されたのは、大正7年(1918年)3月のことです。建設にあたり、『自判』ではこんなことが書かれています。
「私は再度日本を訪れた。しかし、先生は既にこの世を去っていた。私は深く大恩を感じているが、いまだそれを返せていない。私はこの知己に感謝することができぬことを恥じた。そこで、先生の紀念碑を築造することにした。」
ファン・ボイ・チャウの紀念碑を建てるという強い思いが感じられるところです。
 東遊運動が挫折し、ファン・ボイ・チャウが日本から去ったのは、明治42年(1909年)3月のことでした。その後、中国各地で活動したファン・ボイ・チャウは、大正2年(1913年)袁世凱の配下の部隊に逮捕され、3年間獄中生活を送っています。そして1917年(大正6年)2月、政変により自由の身となったファン・ボイ・チャウはその年の5月、8年ぶりに日本に再入国しています。しかし日本に腰を落ち着けたわけではなく、7月には中国に戻り、翌年2月には新仏印総督の使者とあったという記録もあります。
 紀念碑が建てられたのは翌月の3月、こうしてみてみると実にあわただしい間隙を縫って袋井に来たことになります。袋井に着いたファン・ボイ・チャウは『自判』にこんな記述を残しています。
「私は初めて静岡に来た。・・・材料費と彫刻費はいくらか、調べてみたら100円であった。しかも、運んで建てる、その工程になお100円以上が必要だという。私は自分の懐を探ったが、わずか120円しかなかった。・・・そこで李仲柏君とともに、浅羽村長幸太郎氏の家に参上した。」
 この文書からは、袋井に来たことは初めてであること、李仲柏というお伴がいたこと、一緒に東浅羽村に向かったことが分かります。そして袋井駅を降りて最初にした仕事が、紀念碑を作る石材店を探し、値段等を調べたことが伺えます。
 駅から南に向かうファン・ボイ・チャウ達、当時、袋井駅には森町に行く秋葉線が走っていました。南に行くには新横須賀駅までの軽便鉄道も開通(大正3年1914年)していました。東浅羽村への移動にはこの軽便鉄道を利用したことも考えられます。
 ■東浅羽での出来事
 村長宅に上がったファン・ボイ・チャウ達、そこでの記録が書かれています。
 「来意を告げ、あわせて浅羽先生が私を援助してくれたことを詳しく述べた。・・・村長は大感動して、私の計画に大賛成してくださった。私に『速く造りなさい』と促してきたので、私は、私はお金が足りないのだ、と言い、ここに100円あるので〔頭金として〕村長さんの家で預かってほしい、と願い出た。私はまた中国に戻り、お金を得てから、再度来日して石碑を建てようと思ったのだ。」
 ここを読むと、村長宅に伺ったときには、どんな紀念碑を作るか既に決めていたことが分かります。「中国に戻って」という提案も特別なことでもないようです。これに対し村長は、「私には、君の志を達成させる責務があると思う。」と申し出を退けます。
 この日、村長はファン・ボイ・チャウ達を自分の家に泊めています。そして「金曜日には小学校の参観」に連れて行き、「日曜日には村人を前にして訓示」をしています。
 『浅羽(佐喜太郎)君は義侠の心を以て他国の人を援助した。我が村に住む人にとって、彼の業績は名誉である。我が村で、ただ彼一人がこのような君子だろうか? 今、潘さん、李さんの二人が、風や波を越えて、万里の海を越えて、こんな田舎の我が村に来て下さったのだ。浅羽君の石碑を建てるために、だ。』
 『彼等が石を買う費用と、人件費と、運送建築の諸工程にかかる費用を、わが村人が援助する義務があると思う。』
 この村長の提案は、「話が終わる前に、大歓声が建物を揺るがす」程に村人の心を捉えました。その後、「10日ほどで碑は出来上がり」ます。
 「完成した日、村人が集まって完成式典を挙行した。寄付者にはお酒が振る舞われた。」
 ある者はお金を出し、またある者は労務の提供をしたのでしょう、ファン・ボイ・チャウの自らの宿願を果たした喜び、また協力した村人たちの感激が伝わってくる場面です。東浅羽村に来てから完成まで、せいぜい1か月に満たない期間ではないでしょうか、この間ファン・ボイ・チャウ達はどうしていたのでしょうか。
 当時ファン・ボイ・チャウは、「潘是漢」という偽名を使って活動していました。紀念碑には、「越南光復会同人」として建立者の名前が刻まれています。越南とは漢字の音読みで分かるようにベトナムのこと、ファン・ボイ・チャウは独立の象徴としてベトナム・グエン朝の末裔クオン・デ侯を党首に迎え活動していました。当時クオン・デは日本の中で匿われており、フランス政府はその動向に神経を尖らしていました。
一方、同行してきた李仲柏という人物、彼は「日本大学工業進士」だという紹介があります。日本語が話せなかったファン・ボイ・チャウにとって、頼りになる存在ではなかったかと思います。彼が描いたと言われる扇子が浅羽家の新家に伝わっています。
東浅羽に来たファン・ボイ・チャウ、官憲の監視をかわす必要もあったでしょう、李仲柏を残して自らはこの地を離れたのか、或いは束の間の平安をこの村で過ごしていたのか、それを示す記述はありません。
  ■紀念碑の製作者 大杉旭嶺
 浅羽佐喜太郎公紀念碑には、左下の下方に「大杉旭嶺鐫」という文字が彫られています。この彫師の店は何処にあったのか、ファン・ボイ・チャウとの接点はどこにあったのでしょうか。
 市内で石材店を営む㈱石亀石材店の加藤常弘会長にお聞きしたところ、「大杉(秀一)石材はかつて東通りにあったが廃業され、ご子孫も分からない。」とのことでした。
昭和初期のまちの様子を知る山崎逸治さんからは、こんなお話をお聞きすることができました。
 「当時袋井は繭の生産が盛んで、東通りには繭市場があった。その近くには萬屋酒店、木原屋、向笠亭などがあり、その中に大杉石材もあった。店の間口はオープンで広く、雇人も何人か働いていた。」
一帯は旧東海道から引っ越してきた店も多く、賑わっていたようです。山崎さんがお書きになった著書には、こんな記述があります。
 「店の仕事場で石塔を刻む大杉石材店は、コチンコチンと東通の生活リズムのように音を散らし親しまれていたが、事情あって浜松へ引っ越してしまい残念だった。」『袋井町のれん散歩』
 当時の店の様子が偲ばれる文章です。袋井駅から大杉石材までは北に向かって300mばかりのところ、ファン・ボイ・チャウ達は直接ここに出向いて交渉したのかもしれません。
また、この紀念碑について㈱石亀石材店の加藤会長はこんな話しをされました。
「石材は仙台石と呼ばれる質の良い頁岩、字は箱彫りという方法で丁寧に彫られている。特に題字の部分には、細かく刻んだ点が施されており技量のほどが伺える。」
「10日ほど」で完成したとの記述については、「当時の彫師の仕事はノミと金槌での手仕事、1日10文字彫れる程度」ということからすれば、紀念碑に刻まれた文字は約100余文字、急げば出来ない仕事ではないようです。
この大杉旭嶺という彫師の仕事、周辺では旧浅羽町松原柳にある「原孫三郎翁碑」、同じく弥太井の旧正眼寺境内にある「鈴木宗次郎翁功労碑」、また西島の全海寺にある「水谷翁寿蔵碑」に遺っています。
それにしても紀念碑に刻まれたこの詩文、『自判』にもそれが記されていますが、その内容は建立から10年近く経っている筈なのにほとんど違うところはありません。すごい記憶力の持ち主だった、と驚かざるをえません。
■浅羽佐喜太郎への思い
『自判』にはこんな記述もあります。
「私はわずか100円を出したのみ。私は、このことを同胞に伝えたい。この義を知ってもらうには、以上のみで十分だろう。」
この当時の金額、現在のお金に換算したとすると、1円を2万円とした場合、200万円ということになるのでしょうか、決して少なくない金額です。
いくつかの記録を見ますと、中国に活動の拠点を移したとき、独立革命の主導者として著名なファン・ボイ・チャウには、敵味方から武器提供や資金提供の誘いがあったようです。しかし、日本で退去命令が出され困窮を極めたとき、無償の援助をしたのは浅羽佐喜太郎のみでした。
『自判』にはこんな記述があります。
「かつて会ったこともない者から『お金を貸してください』と言われたりしたら・・・。あにはからんや、私は手紙を朝に出したのに、返事はその日の夕方に来た。先生はその返事の中に、早速日本金1700円を入れてくださっていた。・・・一切偉そうな言葉はなかった。」
「私は離日する前に、国府津の浅羽宅へ参上し、先生にお会いした。初めて訪れた。阮泰抜君に私を紹介してもらった。私がまだお礼も言わずにいると、先生は不意に握手をしてくれ、家に引き入れてくださった。よく飲み、よく談じた。おおらかで俗気がない。先生は元陸軍大臣の息子である。医学を職業としている。博士号を得て、病院を開いた。もっぱら貧しい人々を病から救っている。」
この記述には、それまで面識はなく、小田原の医院で初めて会ったことが、浅羽佐喜太郎の人柄とともに記されています。二人は同じ1867年の生まれ、会ったときは40歳という分別盛り、その彼らがまるで100年来の知己のように語りあったと書かれています。また続けてこんなことが書かれています。
「(浅羽佐喜太郎は)生涯政治問題は談じなかったが、私と話したときには、『日本は政治家に乏しい。大隈や犬養になんかに至っては、恥ずかしい連中だね』と言っていた。」
浅羽佐喜太郎の父義樹は、戊辰戦争の時、遠州報国隊に参加して東征した一人、佐喜太郎は体が弱かったため小田原で医院を開業していたとはいえ、当時の国の動静には無関心ではなかったことが伺えます。二人は、国は違っていても同じ時代の空気を吸い、苦しみや憂いを共有していたようにも思われます。
浅羽佐喜太郎は明治43年(1910年)、43歳という若さで亡くなります。ファン・ボイ・チャウは1925年フランスの官憲に逮捕され、フエで軟禁生活を送りますが、1940年太平洋戦争が始まろうとするとき、75年の波乱に満ちた人生を終えます。
『自判』には浅羽佐喜太郎の死を知り、紀念碑の建立を決意したときのファン・ボイ・チャウの言葉として、こんな一節があります。
「死者と約束した以上は、必ず実行せねばならぬ。」
袋井への道は、都会の雑踏に紛れている時とは違い、危険もあった筈です。しかし、ただ強い意志に突き動かされるように、この草深い田舎に足を運んだのでしょう。来世で再会した二人、そこでどんな会話が交わされたのでしょうか。

・文中、紀念碑の紀という字は、『自判』、また石碑にこの字体が使われていますので、そのまま使用しました。
・「 」内の引用は、『自判』から引用したものです。
〔参考資料〕「浅羽佐喜太郎公碑建立100年特別展」 袋井市歴史文化館 編集・発行
  「袋井町のれん散歩」 山崎逸治著
「ヴェトナム亡国史他」 潘偑珠著
「碑文等調査報告書 記念碑・墓碑・頌徳碑・句碑など」 静岡県浅羽町教育委員会発行 郷土資料館報告第三集


袋井駅前に建てられた「ファン・ボイ・チャウ ゆかりの地 袋井市」の石碑 平成31年3月16日建立

大正10年の袋井駅周辺商店
(鈴木邦彦氏提供)


昭和21年の浅羽梅山の写真
(袋井市教育委員会提供)


石碑建立時の写真
前列向かって右から2番目がファン・ボイ・チャウ


李仲柏が書き残した扇子と書