袋井に刻まれたアジアの歴史袋井市は、豊かに広がる田園や美しい茶畑など自然環境に恵まれたまちであり、遠州三山と呼ばれる由緒ある古刹などがある。ここに近代の日本とアジアをつなぐ貴重な歴史遺産がある。可睡齋の「活人剣」もその一つである。「活人剣」は、日清講和条約交渉時に、清国全権大臣李鴻章が暴漢に襲われた事件に由来する記念碑である。この事件は当時、国の威信を揺るがす大事件として知られている。しかし、治療にあたった佐藤進陸軍軍医総監と負傷した李鴻章が互いに信頼する間柄となり、親交を深めたことは殆ど伝えられてこなかった。それが、それが今回「 活人剣」碑に刻まれていることが分かり、改めて光を当てることができた。 活人剣とは中国の仏教書「碧巌録」にある言葉である。佐藤進は、幼少より中国の古典を学び、禅の心得もあった。一方の李鴻章は、若くして科挙の試験に合格した鋭才である。この言葉はすぐさま共有され、互いを認め合うきっかけとなったと思われる。 日清戦争の背後には、押し寄せる西洋列強のアジアへの侵攻があった。佐藤進は、日本の医学を向上させるため、李鴻章もまた列強の脅威から清国を救うため、西洋技術の導入を推し進めていた。二人は同時代のアジア人として、同じ使命感と苦悩を共有していたのであろう。 「活人剣」を建立した日置黙仙齋主は、碑文の中で怨親平等と言い、日清両国の戦死者を平等に供養することを記している。 可睡齋には、同じく日置齋主によって建立された日露戦争の記念碑「護国塔」がある。この塔は、政財界をはじめ明治天皇からの御下賜金も受けて建立されたもので、建物の全高は十八mのガンダーラ様式、当時は「東の神道靖国、西の仏教護国塔」と並び称されていた。 設計したのは、建築を学問として成立させた伊東忠太東京大学教授、氏は三年にかけて中国、インド、中東など世界各地の建造物を調べる旅に出ているが、それをこの設計にも取り入れている。 日露戦争は、日本が勝利した戦いであった。しかし、「是ノ役ノ戦没者数万ナリ」と護国塔傍の石碑に刻んでいる。建設にあたり日置齋主は、戦地となった厳冬の満州に渡航し、集めてきた残灰や土砂を塔下に納め、その霊を慰めている。 浅羽の常林寺には、日露戦争後、日本を頼って来日したベトナムの独立運動の先駆者ファン・ボイ・チャウが建てた報恩の碑と呼ばれる「浅羽佐喜太郎公碑」が遺されている。 ファンは、独立に必要な人材を育成しようと東遊運動(ドンズウ運動)を始める。この運動には、一時は二百人近くの留学生がベトナムから来日していたが、日仏同盟が締結されると国外退去を求められる。この時、ファンに大金を提供して援助したのが、袋井出身の医師浅羽佐喜太郎であった。 ファンは一旦帰国して日本を去る。しかし、佐喜太郎の死を知ると再び密航し、この碑を当時の東浅羽村の村民と共に建てたのである。碑には、「公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。」とある。村民たちは、同じアジア人として独立運動に身を投じたファンに同情と共感の思いを寄せたのであろう。 上山梨にある文化施設「月見の里学遊館」には、台湾に地下ダムを建造した袋井出身の技師鳥居信平の胸像がある。平成二十一年、鳥居の功績を記念して台湾の実業家から贈られたものである。 地下ダムは、伏流水を利用する環境に優しいダムとして知られる。鳥居は下関条約によって割譲された台湾南部の屏東県に渡り、現地の水不足を解消するため、大正十二年に地下ダム「二峰圳ダム」を建設している。鳥居の事業は、建設工法としても素晴らしいが、建設にあたり山中奥地に分け入り、現地の原住民と信頼を築きながら、その協力を得て成功させたことも高く評価されている。そして、台湾南部では、今でも多くの住民がこのダムを農業用水や飲料水として利用し、その恩恵を受けている。 袋井市に刻まれたアジアの歴史、そこには激動の時代を生きてきた先人達の足跡がある。これらの歴史遺産が、日本とアジアの平和と発展の懸け橋となることを願ってやまない。 「甦った活人剣」活人剣再建委員会発行H28,4より |